私は教育基本法改悪に反対するこの数年の取り組みで、これまで教育基本法についての正しい理解が欠けていたことを痛感してきました。「女性のひろば」という月刊誌に掲載された口語・教育基本法という記事を読んで、心底納得できたように思いました(我ながらレベルが低いと反省しています)。
また、これまで数多く引用されてきた学テ判決の「教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される」という部分が、憲法13条と26条から直接導かれていることも不勉強で知りませんでした(教育についてきちんと学んでこなかった、あるいは学ぶ努力の欠如を反省)。年末に教育基本法「改正」情報センターのHPで拝見した世取山洋介参考人の意見陳述(2006年12月1日参議院教育基本法に関する特別委員会)を読んで、「子どもの権利という観点」が自分自身に欠けていたと反省しています。
私たちは、新しい年に新しい状況の下で、憲法と子ども・教育を守る活動を続けていかなければなりません。その立脚点の大事な一つを教えていただいたと思うので、お読みでない方は、長めの引用になりますがご覧ください。
なお、全文はこちらです。
以下引用です。
今日私がお話ししたいのは、子どもの権利という観点から見た国会審議の問題点、現行教育基本法の先駆性および政府法案の問題点ないしは欠陥についてです。(中略)はっきり申し上げなければならないのは、実はこの国会の中で子どもの権利という観点からの法案審議がさほど充実してなされていないということです。例えば政府法案の最大のポイントになっている16条ですけれども、ここでは現行法10条の一項の規定の趣旨、すなわち、たとえ国会の定めた法律に基づくものであったとしても行政の行為が不当な支配に該当する場合があり得るのだという現行教育基本法の10条の趣旨が16条においてもなお継承されているのかどうかということがこの議場で大きな問題とされてきました。
その際、委員の多くの方が引用するのは、76年の最高裁学テ判決ということになるわけですけれども、引用されている部分は、「教育内容に対する国家的介入についてはできるだけ抑制的であることが要請される」と、この部分です。しかしながら、その直後について、一体なぜ国家的干渉が抑制的であることが望まれるのかということの理由を子どもの権利という観点から指摘した次の文章はさほど引用されているわけではありません。読みます。「殊に個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、…は、憲法26条、13条の規定上からも許されない」と。
憲法13条は個人の尊重原理を定めたものであります。しかし、もし仮に国家が、人間が自律した大人になる前の子ども時代に自由に干渉することができるとすれば、実は将来における自律した大人というのは子ども時代において根絶やしにされることになるわけです。したがって、憲法13条の個人の尊重原理から見れば、子ども時代を国家干渉からどのように守るのかということは当然重大な関心事とならざるを得ないわけです。
現行教育基本法の先駆的な性格として指摘しなければならないのは、この関心を既に持ちながらこの教育基本法がもう作られたという事実です。例えば、前文では個人の尊厳を重んじる教育が行われなければならないとはっきり言い、そしてそのような教育の目的が、教育の第一目的が人格の完成、すなわち人格の全面的発達に求められることを1条で明らかにし、その結果としてのみ良き国民形成が行われるということを明らかにしている。さらに、2条においては、そういった人格の完成を満たす教育が行われなければならない方法について規定しているわけですけれども、そこで書いてあることは、「学問の自由の尊重」と「自他の敬愛と協力」なわけです。今風に言いますと、相互尊重と協働に基づいて教育が行われなければならないんだということを2条は実は言っているわけなんですね。
教育基本法の立法者意思を最もよく示すと言われている1947年の「教育基本法の解説」を読みますと、10条のところを読みますと、実は10条は民主主義国家における国家と国民との関係についての規定なので、本来であれば2条に規定されていてしかるべきだったんだけれども、しかし特に教育行政に関係するので独立した条項に起こしたと言っているわけです。つまり、2条と10条は表裏一体の関係にあり、「自他の敬愛と協力」、「学問の自由の尊重」という言葉は10条1項において、引用しますが、「教育は国民全体に対して直接責任を負って行わなければならない」と言い換えられているわけです。
引用終わり。
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